江戸時代からのメダカの歴史

メダカの名前の由来は単純に目が顔の高い所にあるため目高と呼ばれ始め、江戸付近から各地に広まっていったといわれています。
各地の地方名が4680語以上もあるといい昔から人々に親しまれていた事がわかりますが
その親しみのあるメダカを食料にしていたと聞いた事があります。
しかしそれは戦中戦後の話で、食料不足によって食べられていたと考えられています。
また地方名4680語以上もある事でメダカが食料として確立(流通)していなかったとも考えられます。

18世紀に入るとメダカが文献上に載り始めました。
そしてこの頃からメダカ観賞が始まっていったといわれています。
多くの人々は水鉢の中に砂利を敷きその砂利にセキショウを植え水を浅く張りメダカを観賞していました。
メダカの愛くるしい姿やピョロピョロと泳ぐメダカの様子を楽しく観賞している風景は目に浮かびます。
この頃はニホンメダカ飼育が主流となっていたそうです。

19世紀(江戸時代中期)に入りだすと金魚ブームによりメダカの人気は落ちていくのです。
金魚は16世紀日本に入り始めましたが、富豪や大名などの一部の特権階級の高価な贅沢品であった為
一般の人々には、手が届かない存在でした。
しかし19世紀に入ると金魚屋による養殖や中国からの輸入そして金魚鉢の登場によって次第にポピュラーになっていきました。

さらに20世紀始め頃になると熱帯魚が日本に入ってくるようになったのです。
当時熱帯魚は16世紀頃の金魚と同じように大変高価な魚であった為一般にあまり普及しなかったようです。
しかし戦後の1950年頃から次第に輸入量が増えたこと、優秀の器具が次々と開発されるようになった事から一般に広く普及していったといわれています。
しかしメダカの人気は無く大型魚のエサとしてヒメダカだけは広く流通していったのです。

21世紀を迎える頃になると再びメダカを飼育する人が増えてきました。
ダルマメダカや光(ホタル)メダカなどが新種メダカとして登場したためです。
そしてメダカの人気は徐々にあがり始め現在密かなメダカブームを迎えているのです。

ニホンメダカは1823年シーボルトによって世界に初めて紹介されました。
1846年C・Jテミンク、H・シュレーゲルによって学術書に分類、記載されました。
Poecilia Latipes その種目 Latipesは幅広い、latusは足、pesは尾ビレという意味でメダカ種の特徴を表した学名です。
その後分類学位置づけにより次々と学名が変わり1929年から属名 Oryzias が使われるようになりました。

最も古いヒメダカの絵
左記図の上部中央が
ヒメダカです。

尾ビレが違いますが最も古い
ヒメダカの図と考えられています。

「梅園魚譜」毛利梅園 画
天保6年(1835年)

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